「被爆証言と篠笛の調べ」の会を聴いて 中国同友会 神田 嘉文

260814 広島 笛

8月6日・・・69年前、原子爆弾が広島に投下された日です。

毎年この時期になると、近くの阿品市民センターで、実際に被爆された方の被爆証言を聴き、平和について考える会が開催されます。

今回の被爆証言は、町内のYさん(84歳)でした。彼女が被爆者であることは、日頃みじんも感じられなかったので特に感慨深く聴きました。

Yさんは、原爆が投下された悲惨な情景を思い出したくなかったのか、原爆のことについて多くは語りたくなかったのだろうと思いますが、家族から「被爆体験者がだんだん少なくなっている。被爆証言をすることに使命があるんよ、責任があるんよ」といわれて話すことにしたそうです。以下はYさんの被爆証言の概略です。

「私は爆心地(原爆ドームのすぐ近く)から約300メートルのところに住んでいましたが、原爆が投下された8時15分は学徒動員で、好きな女学生の制服をもんぺに白い鉢巻姿に変え、軍需工場で鉄砲の部品を作るのに駆り出されていた時でした。幸い約7Km離れた建物の中にいたため死は免れましたが、市内の様子を見てきた先生に『今日は市内に絶対入ってはならない』と言われ、翌7日早朝になって自宅に帰ることができました。帰る途中、川土手の堤防には亡くなった人が重なるように置かれており、頭が割れて目が飛び出している子どもとか、乳のみ児を抱いたお母さんがそのまま真っ赤に焼けて息絶えていました。

幸い父母は、遠方に出かけて建物の中にいたため助かったのですが、姉は被爆して、あまりの熱さのためか川に入り、いかだにつかまり、浮き沈みしながらそのまま流されていった・・・と人づてに聞きとても悲しくなりました。

祖母は川土手まで逃げていたのをようやく見つけ、声をかけたけれど、かすかに返事をしたまま亡くなりました。

亡くなった方は、消防団が死体を積み重ねて油をかけて焼いてしまうので、びっくりした母が消防団の人に『私たち3人で葬らせてください』と言っても『今はそんなことは無理だ』といわれ、母は祖母の焼けた髪を坊主になるほど切って『ごめんね、ごめんね』と言いながら、しばらく祖母を抱いていました。

終戦の日の天皇陛下の玉音放送を聞き率直な気持ち『これで良かったのだ』と思いました。

近ごろの世の中は、なにか逆行していくような気がしてなりません。生きとし生けるものが平和の世の中で命を全うできるようにしなければなりません。どうか戦争のことを、子どもさんや、お孫さんに話をしてください。永久に平和が続くよう願っています。」

と締めくくられました。聴いた後の何とも言えぬ辛い気持ちは、そのあとの篠笛の優しいな調べで気持ちが落ち着きました。

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今も語り継がれる「被爆証言」を聞きながら、世界のあちこちで繰り返されている戦争に「人間は何故戦争をするのだろうか?いったいどうすれば本当の平和が来るのだろうか?人間はどのような業を負わされているのか?」ただただ、平和を念ずるばかりです。

余談になりますが、私(当時1歳3か月)は70km離れた場所だったので、幸い被爆は免れたのですが、原爆についての思い出は、小学生低学年の頃、「ちち、はは、ピカドンでハングリーハングリー」という言葉を子どもたちが冗談に言っていたぐらいで、中学生になって、広島市内に行くことがありましたが、市内の悲惨な原爆の状況を記憶していません。もうその頃にはかなり復興していたのかもしれません。

次元も、規模も違うと思いますが、東北の原発被害から早く復興されますよう祈念しています。

なお、その会で、林 幸子さんの詩『ヒロシマの空』の朗読ありました。その詩の一部を書きます。全文はネットで検索して読んでみてください。

ああお母ちゃんの骨だああ ぎゅっ とにぎりしめると白い粉が 風に舞うお母ちゃんの骨は 口に入れるとさみしい味がするたえがたいかなしみがのこされた父とわたしにおそいかかって大きな声をあげながらふたりは 骨をひらう菓子箱に入れた骨はかさかさ と音をたてる

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